明顕山 祐天寺

年表

元禄03年(1690年)

伝説

木戸伝兵衛の妊娠中の妻、病癒える

松平主水に仕える木戸伝兵衛の妻は、妊娠6か月のとき激しい瘧を病み、調子が良くないまま産み月、元禄3年1月を迎えました。小水が出なくなり、全身にはれとむくみが広がって食事ものどを通らず、とうてい命が助かるとは思えない容態になってきました。夫伝兵衛はひどく心配してそばを離れず看病していましたが、あるとき新しい小盃を持って祐天上人の庵室を訪れました。上人に妻の様子を申し述べ、この盃に名号を書いていただければ水で注ぎ落として飲ませ、臨終正念に往生させてやりたいと涙ながらに語りました。上人も哀れに思い、名号を書写されました。伝兵衛はおしいただき、帰って妻に飲ませ、ひたすら念仏を唱えていると、ほどなく小水がおびただしく出て、やがて安産して母子ともに無事だったということです。

参考文献
『祐天大僧正利益記』中

寺院

幡随院、本堂の再興

檀林幡随院(神田山新知恩寺)は、明暦3年(1657)の振り袖火事の際に類焼し、万治2年(1659)に替地の浅草神吉町に移りました(万治2年「寺院」参照)。翌万治3年(1660)には朱印地をたまわり、以来復興に努力を重ねて、元禄3年に本堂が再建されました。16間に15間という、およそ778平方メートルの立派なものでした。

鍬形正観世音の招請

鍬形正観世音菩薩像は、増上寺17世了学上人の手により増上寺に安置されたものです。了学上人がまだ飯沼弘経寺の住職であったとき、池の底から光り輝く尊像が浮かんでくる夢を見、翌朝まさしく夢のとおりに池に沈んでいた8寸2分(約25センチメートル)の尊像を発見しました。増上寺に移った了学上人は、尊像を発見した日と増上寺開山聖聴上人の忌日が同じであることから、尊像を開山上人の本地仏と仰ぎました。元禄3年6月、この正観音像は江戸城へ迎えられ、このとき将軍が甲の鍬形に立ててご覧になったので、鍬形正観音と呼ばれるようになったのです。

空無の念仏会

深川心行寺3世だった空無上人は、貞享年間(1684~1687)病気のために引退し、不忍池近くに荷葉庵という庵を結びました。空無上人は、江戸に初めて六地蔵を作った人物としても有名です(元禄4年「寺院」参照)。また、以前より上人は万日念仏会を行っており、庵を結んでまもない元禄3年に、法会が満了しました。1万日(約27年)中断することなく修行を続けた空無のもとには、十念を受けたり、手書きの名号をほしがる大勢の人々が集まったそうです。

参考文献
『浄土宗全書』19、『浄土宗全書』20、『浄土宗大年表』、『東都歳時記』、『武功年表』

出版

『死霊解脱物語聞書』

祐天上人が羽生村の菊に取り憑いた累の霊を鎮めた話(正保4年・寛文12年「伝説」参照)が本になり、江戸山形屋吉兵衛より刊行されました。作者は定かではありませんが、本文中に「残寿」という人物がこの事件のことを祐天上人や村人から聞き書きした旨の記述があり、残寿であろうとされています。この本は大評判を呼び、多くの人に読まれて版を重ねます。のちの文芸の「累物」のもととなった作品です

参考文献
『死霊解脱物語聞書』(正徳2年版本、祐天寺蔵)『変化論―歌舞伎の精神史』(服部幸雄、平凡社、1975年)、『日本古典文学大辞典』

芸能

嵐三右衛門、没

初代嵐三右衛門が亡くなりました。寛永12年(1635)生まれで、最初は丸小三右衛門という芸名でしたが、寛文年間(1661~1672)頃『小夜嵐』という芝居で六方を踏んだとき、「花に嵐」のセリフで大評判を取り、嵐と改姓します。延宝2年(1674)または同3年(1675)に上京、以後京・大坂で活躍しました。やつし事を得意とした名優でした。11世(11代目は1946年襲名)まで続く名跡です。

参考文献
『歌舞伎事典』、『読める年表』
TOP