松平主水に仕える木戸伝兵衛の妻は、妊娠6か月のとき激しい瘧を病み、調子が良くないまま産み月、元禄3年1月を迎えました。小水が出なくなり、全身にはれとむくみが広がって食事ものどを通らず、とうてい命が助かるとは思えない容態になってきました。夫伝兵衛はひどく心配してそばを離れず看病していましたが、あるとき新しい小盃を持って祐天上人の庵室を訪れました。上人に妻の様子を申し述べ、この盃に名号を書いていただければ水で注ぎ落として飲ませ、臨終正念に往生させてやりたいと涙ながらに語りました。上人も哀れに思い、名号を書写されました。伝兵衛はおしいただき、帰って妻に飲ませ、ひたすら念仏を唱えていると、ほどなく小水がおびただしく出て、やがて安産して母子ともに無事だったということです。
祐天上人が羽生村の菊に取り憑いた累の霊を鎮めた話(正保4年・寛文12年「伝説」参照)が本になり、江戸山形屋吉兵衛より刊行されました。作者は定かではありませんが、本文中に「残寿」という人物がこの事件のことを祐天上人や村人から聞き書きした旨の記述があり、残寿であろうとされています。この本は大評判を呼び、多くの人に読まれて版を重ねます。のちの文芸の「累物」のもととなった作品です。