明顕山 祐天寺

年表

元禄元年(1688年)

祐天上人

本所牛島(墨田区)に隠棲した祐天上人が最初にしたことは、京、奈良など、諸処の名刹の歴訪でした。隠棲した年の貞享3年(1686)から旅立ったことが知られていますが、旅の期間は1両年、あるいは3年とあり、3年だとしても元禄元年のこの年には牛島に帰って来たことになります。

祐天上人が旅の途中、どこを訪ねたかははっきりとわかっていません。各地の寺を巡りながら、人々に念仏の教えを広めて歩いたことが推測されます。ただ、京の知恩院に逗留して松川町升屋喜平次という者の老母を教化したことが、『祐天大僧正利益記』上にあります。これは『祐天大僧正実録』附に書き込みがある、「京都末津加波町某之母」に「貞享三年に十念を与えた」という記事と符合します。

また奈良東大寺に至ったことは『顕誉大僧正伝略記』『祐天寺開山実録』に記載があります。当時大仏殿はほとんど失われたままで、大仏は風雨にさらされていました。東大寺の公慶による大仏殿再建の勧進(貞享2年「寺院」参照)が関東でも始まろうとするときでした。祐天上人は、荒廃のさまを目のあたりにして、堂宇の再建に協力することを決意しました。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『祐天寺開山実録』附、『祐天大僧正実録』附、『続史愚抄』64、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

伝説

焼けずの名号

小笠原遠州侯の藩中、原藤八郎の伯父何某は、念仏の行者でした。祐天上人の教えに帰し、名号を大切にしていました。隠居して長州下関に住み、孫を大変かわいがって毎晩抱いて寝ていました。元禄元年春のある夜、隣家の火が燃え移ってきて何某はあわてて孫を抱いて逃れました。ところが2、3町ほど行ってよく見ると、抱えて出てきたのは孫ではなくて括り枕だったのです。何某は驚き嘆いて孫もろともに焼け死のうと、火の中に飛び込もうとしましたが、人に抱きとめられました。やがて火も鎮まり、せめて遺骸を探そうと寝所とおぼしきところを探しました。屋根板がたくさん落ちたのをかき除けると、信仰している名号が焼け残っており、布団もそのままありました。それを開くと、孫は何のけがもなく熟睡していたのでした。

参考文献
『祐天大僧正利益記』上

三十郎の利益

元禄元年4月、津軽越中侯の家臣、山河角左衛門の嫡子三十郎は物の怪が憑いたように狂い出し、さまざまなことを口走り始めました。護摩修法なども効果がなく、しだいに身体が衰え命も危うく見えたので、父母は嘆き、せめて後世を助けようと、同じ家中でつねづね祐天上人のもとに参って教えを乞うていた山田源左衛門を頼って祐天上人に願い出ました。上人は、両親が本人に代わって念仏せよと教え、「襟掛けの名号」1枚をくださいました。両親がそれに従ったところ、その日の深夜、誰とも知らぬ女がうれしげに微笑んで三十郎のそばを立ち去り、それから三十郎は本復したと言います。

参考文献
『祐天大僧正利益記』上

寺院

孤雲、知恩院住職に

2月13日、鎌倉光明寺47世専誉孤雲が、知恩院40世新住職として入院しました。前年〔貞享4年(1687)〕12月1日に39世感榮が寂した跡を継いでのことです。孤雲は、祐天上人が増上寺に帰山したときの月行事で上人は孤雲の学寮を継いでいます。

参考文献
『入寺帳』(増上寺蔵)、『緑山志』(『浄土宗全書』19)
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