明顕山 祐天寺

年表

元禄02年(1689年)

祐天上人

牛島の暮らし

旅の途次、東大寺大仏殿の荒廃ぶりを見た祐天上人は、牛島(墨田区)に帰ると、大仏殿再建の費用作りに励み始めました。念仏勤行の合間に六字の名号「南無阿弥陀仏」を書いて、それを人々に与えました。人々は身分に合うだけのお礼を置いていったことでしょう。祐天上人はそうしてたまった浄財で大仏殿に使う柱数十本に見合う寄付を東大寺にしたのでした。
道俗が遠近から名号を求めて次々と草庵を訪れ、祐天上人は1日におよそ1、000枚以上の名号を書いたと伝えられています。

参考文献
『略記』、『実録』、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

伝説

房州の漁師の利益

8月、房州(千葉県)の漁師が魚を船に積んで江戸へ向かう海上で、暴風に遭い、方角もわからなくなりました。数日経ち、食料も水も尽きましたが、港も見えない波の上です。日頃から祐天上人を信仰している忠兵衛は、名号をいただいて襟掛けにしていたものを懐から取り出し、櫓の端に懸けて本尊とし、高声に念仏しました。ほかの者も誘われて念仏していると、虚空に声が聞こえ、「明日は南部(青森県・岩手県)に着く」と告げました。皆がその言葉に力を得て時を過ごしていると、そのとおりに翌日、南部に着いて命が助かったのでした。

参考文献
『祐天大僧正利益記』上

寺院

霊山寺に所領寄付

2月、幕府は本所霊山寺に境内7、000坪を寄付しました(貞享2年・元禄元年「寺院」参照)。

三室戸寺開帳

8月、浅草霊山寺が本所に移り、拡張されました(貞享2年「寺院」参照)。

増上寺所化寮規定

山城国(京都府)宇治郡宇治村三室にある三室戸寺は、西国三十三観音の霊場の1つです。宝亀年間(770~780)、宮中に瑞祥があり、役人が勅命により志津川岩淵(本寺の近辺)に来ると、そこで金の千手観音像を発見したと言います。光仁天皇はそれを聞かれて御感あり、土地を下賜して伽藍を造らせ、御室戸寺(三室戸寺)と名付けたと言います。江戸時代に西国巡礼が盛んになってからはたくさんの参詣者で賑いました。聖護院門主は、1代に1度三室戸寺に詣でて護摩を修するのを例としました。元禄2年3月、開帳が行われ、多くの人が詣でました。

綱吉、自ら猿楽を舞う

4月13日、江戸城の猿楽(能)の催しで、将軍綱吉(延宝8年「人物」参照)は自ら猿楽を舞いました。曲は「難波」「江口」「橋弁慶」でした。知恩院孤雲、増上寺古巌のほか、伝通院、天徳寺、知恩院、増上寺の役職者や別当たち、日吉山王神社の神官も陪観しました。僧侶を招いてともに猿楽を楽しむ催しは、前代までの将軍にもありましたが、そのような場で自ら舞ったのは、綱吉が初めてです。

参考文献
『望月仏教大辞典』、『浄土宗大年表』、『徳川実紀』6 〔絵 三室戸寺 『西国三十三所名所図会』〕

出版

『おくのほそ道』

松尾芭蕉(「人物」参照)は、元禄2年1、2月頃の手紙に「一夜の無常、一庵のなみだもわすれがたう覚え、猶観念やまず、水上の泡きえん日までのいのちも心せわしく」と旅に対する思いを書きつづり、3月末に門人曽良を伴って旅に出ました。この旅の体験を書いた紀行文が『おくのほそ道』です。芭蕉の旅の心は『おくのほそ道』冒頭に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。船の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」とあるように、船頭・馬方のような旅に生涯を捧げるような生き方です。建造物だけではなく、「室の八嶋」における「木の花さくや姫」の潔白な生き方、日光山麓の宿の主「仏五左衛門」の正直一点張りな性質など人の心のありようを描き、人の心に深く触れています。この旅での無名な人々とのわずかな出会いにより、さまざまな人々との出会いの大切さを語り、旅は無常であり、それゆえにその体験は貴重であるということを説き、人生の本質は旅であり、旅に生きたいという芭蕉の人生観をはっきりとさせました。

参考文献
『芭蕉と奥の細道論』(丸山茂、新典社、1995年)、『芭蕉と奥の細道ところどころ』(小島吉雄、桜楓社、1976年)
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