旅の途次、東大寺大仏殿の荒廃ぶりを見た祐天上人は、牛島(墨田区)に帰ると、大仏殿再建の費用作りに励み始めました。念仏勤行の合間に六字の名号「南無阿弥陀仏」を書いて、それを人々に与えました。人々は身分に合うだけのお礼を置いていったことでしょう。祐天上人はそうしてたまった浄財で大仏殿に使う柱数十本に見合う寄付を東大寺にしたのでした。
道俗が遠近から名号を求めて次々と草庵を訪れ、祐天上人は1日におよそ1、000枚以上の名号を書いたと伝えられています。
8月、房州(千葉県)の漁師が魚を船に積んで江戸へ向かう海上で、暴風に遭い、方角もわからなくなりました。数日経ち、食料も水も尽きましたが、港も見えない波の上です。日頃から祐天上人を信仰している忠兵衛は、名号をいただいて襟掛けにしていたものを懐から取り出し、櫓の端に懸けて本尊とし、高声に念仏しました。ほかの者も誘われて念仏していると、虚空に声が聞こえ、「明日は南部(青森県・岩手県)に着く」と告げました。皆がその言葉に力を得て時を過ごしていると、そのとおりに翌日、南部に着いて命が助かったのでした。