祐天上人は増上寺に戻って修学を続けていましたが、貞享2年は二臘の地位にありました。二臘は、学頭に継ぐ地位です。貞享元年(1684)に二臘だった春応は霊巌寺の住職となり、三臘だった秀道は幡随院の住職の座に就いていることは、増上寺の二臘、三臘の地位の高さを物語ります。
江戸中橋の名主高野新右衛門の下女よしは、主人の子を身ごもりましたが、新右衛門は世間の聞こえをはばかってよしを親元に帰し、堕胎の薬を飲ませました。ところがこの薬がもとでよしは苦しみだし、死んでしまいました。父母の嘆きもいたし方なく、浅草寿松院へ葬りました。ところがよしの霊は成仏せず、新右衛門の娘で離縁して家に帰ってきていたみよに憑き恨みを述べたのです。
新右衛門は驚いてさまざまな祈祷を頼みました。しかし、さっぱり怨霊は退散しません。新右衛門は人に勧められて、増上寺の学寮主であった祐天上人に祈祷を依頼しました。新右衛門の菩提寺は増上寺塔頭花岳院であったので、そちらから依頼しました。祐天上人は怨霊に、「人を恨んで祟りをなしても、今汝が受けている苦患は免れない」と諭しました。怨霊の言うには、新右衛門が堕胎させた子供は15人あり、これらも救って欲しいとのことでした。新右衛門はいちいち思いあたることであり、驚愕し恐れました。祐天上人は霊たちに法名を与え、供養のため新右衛門に花岳院で七日間の別時念仏を修させました。やがてみよの病気は治ったということです。
この話は、小さな命であっても尊ばなければならないという教えです。密通による堕胎のほかに、民衆の貧しさゆえの堕胎、また、生まれてから間引かれる子も多かったのです。
夢で弘法大師に会ったのがきっかけとして、13歳で東大寺大喜院に出家した公慶は、雨ざらしの東大寺大仏を見て涙し、このときすでに大仏殿の造営を志していたそうです。それから24年後の貞享元年(1684)5月、公慶は江戸幕府に赴いて、大仏殿造営のための、幕府を後ろ盾とした諸刻勧進(人々に仏の教えを説いて仏教に帰依させ、善行を勧めること。鎌倉時代の頃からは、寺院の創建や修繕の費用を得るために喜捨を求めることへと、意味合いは変化していった)鎌倉時代の頃からは、寺院の創建や修繕の費用を得るために喜捨を求めることへと、意味合いは変化いていった)の許可を求めました。さまざまな質問を投げ掛けてくる幕府に、公慶はひたすらに人々の仏心について説き、ついに6月9日に勧進の許可がくだりました。貞享2念(1685)11月29日、公慶は大仏像前で大仏事始めとしての法要営むと、この日から勧進に出発します。奈良から始まって60余州を回り、人々に大仏の縁起を語り、朝夕一汁一菜という粗食の毎日を送りました。公慶は、隆光や祐天上人にも勧進の助力求めており、これより公慶の勧進活動は、入寂までの22年間たゆまず続けられていくのです。