明顕山 祐天寺

年表

貞享元年(1684年)

祐天上人

祐天上人、『浄徳院様御斎料定書』に署名

6月6日、浄徳院(将軍綱吉子、徳松)の供養のため、増上寺の月行事5人以上と寮舎5人以上が、毎月27日に法要を行うことが決められ、その都度1人1俵の米が下給されることとなりました。そのことを承認した旨を示す記録『浄徳院様御斎料定書』には、祐天上人も署名しています。このときの署名の順番から見ますと、この年の祐天上人は月行事(全部で12人)の5番目の位置(五臈)であったことがわかります。

参考文献
『増上寺資料集』1

出版

『野ざらし紀行』

貞享元年8月、芭蕉(元禄2年「人物」参照)は門人千里を伴って、郷里伊賀(三重県)へ野ざらしの旅に出ました。本書は、この旅の四季の発句45句を中心として構成された芭蕉の初めての紀行文集で、翌年成立しました。天和3年(1683)に芭蕉の母が死んでしまい、その墓参りも兼ねての旅でした。芭蕉自筆奥書に「此一巻は必紀行の式にもあらず、ただ山橋野店の風景・一念一動をしるすのみ」とあるように、旅を通して得られた感慨を句にしようとしており、有名な「山路来て何やらゆかしすみれ草」の句が詠まれたのです。そしてこの旅の途中に成立した句集『冬の日』で蕉風(芭蕉およびその一門の俳諧)が確立されました。

参考文献
『芭蕉の世界』(角川選書161、山下一海、角川書店、1985年)、「句集でたどる芭蕉の生涯」(雲英末雄、桜井武次郎、『解釈と鑑賞』第41巻3号、1976年3月)

芸能

椀久物の初演

延宝5年(1677、一説に貞享元年)大坂で椀屋久兵衛が安治川口にて、狂乱の末水死しました。33歳でした。椀屋久兵衛は財産家でしたが、遊女松山に入れ上げて遊郭通いをし、座敷牢に入れられて発狂し、その後、放浪したあげくの死だったと言われます。井原西鶴(元禄元年「人物」参照)もこの人物を題材にした小説『椀久一世の物語』を書いていますが、芝居では7回忌にあたる貞享元年、大和屋甚兵衛が演じたのが最初だとされます。(この年に椀久が死んだとする説では、椀久の生前にすでに劇化したとしています)。甚兵衛は椀久生き写しという評判を取りました。椀久が狂乱し、松山の幻を追うさまは、観客の涙を誘いました。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎事典』
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