明顕山 祐天寺

年表

天和03年(1683年)

祐天上人

下読法問

この年、祐天上人は「六度大網」の算題で増上寺の下読法問の講師を勤めました。「下読法問」とは、檀林で行われていた授業方法の1つで、宗義に関する問題を出して問答を行うものです。上位の者が問題を読み上げるのを上読法問と言い、下位の者が上位の者へ問題を読み上げるのを下読法問と言いました(延宝4年「祐天上人」参照)。
下読は九部のうち下の2部、「名目」と「頌義」を対象としていました。法問主は月行事が順番に行い、法主に代わって論議の是非を判定しました。授業の時期は3、5、9、11月の年4回でした。
この年、祐天上人が下読法問の講師をしたということは、この時期に月行事の十二僧の地位にあったという事を示します。

参考文献
『浄土宗大辞典』、『浄土宗義講録(仮題)』(三康図書館蔵)、『浄土宗全書』20

父君、逝去

10月8日、祐天上人の父君新妻小左衛門重政が逝去され、菩提所、いわき最勝院に葬られました。法名は「本覚院楽誉浄安居士」です。

参考文献
『明顕山寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』(祐天寺蔵)

寺院

金地院、五山に

正月21日、幕府は金地院に五山出世の公貼をたまわりました。金地院は、京の南禅寺町にあります。南禅寺68世大業が寺を起こしました。五山とは、中国の五山(5つの大禅寺)にならって建長3年(1251)北条時頼が鎌倉に建長寺を草創したのに始まり、鎌倉五山、京都五山があります。
4代目崇伝は駿府に召されて家康の帰依を受け、慶長15年(1610)駿府にも金地院を建てました。駿府金地院は元和2年(1616)に家康の薨去に伴い、江戸城内紅葉山に移され、さらに元和5年(1619)、芝に土地を与えられて堂塔の建立を許されました。


家光33回忌

4月、3代将軍家光の33回忌の法要が家光廟遷座と併せて日光で行われました。法会の読経僧の数は8万6、000人、お布施は金4、552両にのぼりました。


先祖供養

8月4日、幕府は増上寺の崇源院殿(秀忠室お江与の方)、高嶺院殿(家綱室)、宝樹院殿(家光側室、家綱生母)への代参制を定めました。徳川幕府も5代を数え、江戸開府以後の御霊も多くなる中で、直接血縁のない先祖であってもそちらへの墓参がおろそかにならないようにと配慮した結果でしょう。

参考文献
『徳川実紀』5、『浄土宗大年表』、『望月仏教大辞典』

出版

『虚栗』

俳諧撰集。榎本(宝井)其角(元禄7年「人物」参照)の撰で、芭蕉が跋文を与えました。天和3年刊行。上巻に春夏、下巻に秋冬の句を収めています。

哀れいかに宮城野のぼた吹き凋るらん
陸奥の夷知らぬ石臼
武士の鎧の丸寝枕貸す
八声の駒の雪を告げつつ
詩商人花を貧ル酒債かな
春-湖日暮れて駕ル興吟ニ
(「詩あきんど」の巻」)

このように、漢詩文の教養を踏まえた漢詩文調で書かれており、のちに漢詩文調を取り入れたこの作風は「虚栗調」と呼ばれ、蕉風俳諧(芭蕉およびその一門の俳諧)の幕開けとして注目されました。

参考文献
『年表資料近世文学史』
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