明顕山 祐天寺

年表

寛文12年(1672年)

伝説

累の怨霊得脱

羽生村(茨城県水海道市)の累は、目と足が悪く、心も良くない女でした。入り婿(与右衛門)が来て夫婦になりますが、この与右衛門が悪心を出しました。累を殺して田地を自分のものとし、美しい妻を娶ろうと企てたのです(正保4年「伝説」参照)。夏のある日、夫婦は刈り豆を収穫に行きました。その帰途、与右衛門は累を絹川に突き込み、押さえ付けて殺してしまったのです。背中に背負っていた刈り豆が水を吸い重くなって、もがく累のかせとなりました。「頓死」と偽り、葬式も出し、新たに結婚した与右衛門でしたが、新しい妻は何人娶っても死んでしまいます。6人目の妻を娶ってやっと女の子(菊)が生まれますが、この妻も菊が12歳の年に死んでしまいました。与右衛門は菊に婿をとって楽隠居をと考え、金五郎という男と結婚させます。ところが明くる寛文12年の正月、菊が急に口から泡を吹いて苦しみ始めました。そして、恐ろしい声で「われは累である。与右衛門を取り殺さずにはおかない」などとわめいたので、与右衛門と金五郎は菩提寺法蔵寺に逃げ込みました。どんな祈祷にも退散しない、この死霊に取り憑かれたとされた菊を助けたのが、その頃檀通上人に随従して飯沼弘経寺に来ていた、祐天上人でした。菊の髪を手にくるくると巻いて押さえ付け、強引に念仏を称えさせ、死霊を成仏させたと言います。祐天上人はその後、累の母の連れ子でやはり非業の死を遂げていた助の霊も救済したと伝えられています。
この話は元禄3年(1690)出版の、『死霊解脱物語聞書』(元禄3年「出版」参照)に収められ、広く読まれました(正保4年「伝説」参照)。

参考文献
『死霊解脱物語聞書』(残寿)

寺院

勧進者に宿を貸すことの禁止

勧進とは、仏の教えを説いて人々を仏教に帰依させ、善行を勧めることで、勧化とも言います。しかし鎌倉時代以降になると、寺院の創建や修繕の費用のために喜捨を勧める意味合いに変わり、江戸時代の中期には、単に生活費を稼ぐために勧進と称して金銭を求める者が現れてきます。
幕府よりの法度にある勧進者とは、勧進大神楽を興行する者のことで、法度はその者たちへの禁制でした。勧進のために大神楽(獅子舞に寸劇や曲芸などを加えた大道芸)を行うことを禁じ、またそれら大道芸人たちに宿を貸してはならないというものです。こういった勧進に伴いさまざまな興行をする風潮は、南北朝時代(1331~1392)頃から見られ、勧進猿楽や勧進能、江戸にくだっては回向院境内でしばしば行われた勧進相撲が有名なところでしょう。大道芸能はこののち、見世物や的屋(香具師。「解説」参照)の見せる曲芸などの方向へ発展していきます。


蓮華院開山成辨、示寂

成辨上人は、覚蓮社転誉伝夢と号し、増上寺第19世となった智童上人から法を嗣いだ人物です。世寿75歳でした。蓮華院は知恩院末寺として寛永2年(1625)に、成辨上人によって創建されましたが、太平洋戦争で伽藍が焼失し、現在はその面影さえ残っていません。当時は浅茅ヶ原(浅草今戸)にあり、貞享3年(1686)の頃には、祐天上人が数か月間隠棲されていたこともありました(貞享3年「祐天上人)参照)。

参考文献
『日本仏家人名辞書』、『仏教大辞典』、『略記』、『国史大辞典』、『徳川実紀』5

出版

『貝おほひ』

宗房(芭蕉)撰の句集。芭蕉の自序に「寛文12年正月25日、伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にして自ら序す」とあり、この日の成立とされます。芭蕉が伊賀上野の俳人36名からそれぞれ1句あるいは3句を選んで、自句を加えて60句とし、左右に分けて30番の句合(歌や俳句を比べて、判者を立ててその優劣を定める)にし、勝負の判を加えたものです。これらの俳人は無名の人々で、7名のみ当時の名が俳書に現れています。29歳の芭蕉が初めて公にした撰集で、発句・判詞ともに、当時の流行の小唄や奴詞(奴や侠客などが用いた荒々しい言葉)、流行語などを自由に使い、楽しむ俳句を目指しています。

参考文献
『総合芭蕉辞典』(栗山理一監、雄山閣、1978年)、『芭蕉辞典』(中村俊定監、春秋社、1978年)
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