明顕山 祐天寺

年表

寛文11年(1671年)

祐天上人

檀通上人『関東諸檀林掟書』に署名

正月12日、『関東諸檀林掟書』が制定されました(「寺院」参照)。檀林の住職らが署名し、祐天上人の師檀通上人も飯沼弘経寺の住職として署名しています。

参考文献
『浄土宗全書』20、『増上寺史料集』1

寺院

檀林法規17条

正月12日、諸檀林の住持が増上寺に集まり、17条からなる法規を制定しました。
一、 他寺の僧に、綸旨の添状を書いてはならない(僧としての位階が上が
るとき、綸旨という勅命による書状が出されますが、それは檀林住持
の添状つまり推薦状を必要としました。それを、頼まれたからといっ
てみだりに書いてはならないと、警告したのです)。
一、 五重相伝を受ける者の資格は5年の修学を、血脈を授けるには10年
の修学をした者に伝授する。
一、15歳未満の僧の入寺を禁止。
など、檀林のレベルの維持、権威の維持を目的としたものです。


宗門改帳の整備

宗門改とは、江戸幕府がキリシタンを摘発するために布いた制度で、はじめは一部の地域のみで行われていました(寛永15年「事件」参照)。しかし、島原の乱〔寛永14年(1637)〕後の寛永17年(1640)、幕府は宗門改役を置いて、直轄地のキリシタン弾圧を強化しました(寛永17年「寺院」参照)。寛文4年(1664)幕府はさらに、諸藩に対して宗門改役人を置かせ、毎年の宗門改を義務として課しました。そして、旗本などの領地では、名主や年寄に毎年五人組の手形を取らせました。これが宗門改帳の発生です。すなわち初期の改帳は、手形(人の特定に役に立つ)の集成であったわけです。
その後、改帳の体裁は、宗旨を人ごとに記す宗旨人別帳に統一されていき、寛文11年に宗門改帳が法的に整備されました。こののちは、この帳面の作成が、宗門改の中心となっていくのでした。宗門改帳の整備により、これは人民の戸籍簿となり、また租税台帳のもとともなりました。寺請け制度も進み、皆どこかの寺院の檀家となったのです。
ただし、長崎など隠れキリシタンが多く存在した地域では、宗門改は特別厳重に行われ、踏み絵(キリスト、聖母マリアの絵を踏ませ、キリシタンでないことを確かめた)が行われました。

参考文献
『国史大辞典』、『浄土宗大年表』、『浄土宗大辞典』

出版

『蚊柱百句』

西山宗因(正保4年「人物」参照)の独吟百韻(句を100句続けて詠むこと)。寛文末年(1671)~延宝初年(1673)頃刊行。貞門(松永貞徳の一門の俳諧)を脱した自由奔放な新傾向が表れています。貞門の作風と異なっていたために本書は、延宝2年(1674)『渋団』の中で去法師に「俳諧といふも和歌の一体ならずや」と論難されましたが、翌3年(1675)『渋団返答』により岡西惟中が本書をかばって反論しました。宗因も反論して、「自分の心の向くままに書いて、自分が楽しめれば良い」と主張しました。やがて談林派と呼ばれる西山宗因らは貞門と大論難合戦を引き起こしますが、延宝元年に俳諧撰集『西翁十百韻』が出版され、宗因の自由奔放な句を師事する人々が集まるまでになりました。

参考文献
『年表資料近世文学史』、『日本文学の歴史』7―近世篇(ドナルド・キーン、中央公論社、1995年)

芸能

役者の芝居茶屋出入り禁止

江戸堺町、葺屋町、木挽町の狂言座の役者、芸人は、芝居茶屋や見物場所へ入ることが禁止されました。見物客と役者との交流が行われないようにという、幕府の方針からでした。

参考文献
『歌舞伎年表』1、『江戸歌舞伎法令集成』
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