明顕山 祐天寺

年表

寛文10年(1670年)

祐天上人

伝法

当時の学僧は九部修学といって1つの部に3年間学び、計27年間で学問を終える制度になっていました。ですから当時の随身僧は、師僧に随従して新しい檀林に行くと、おそらく法臘(出家してからの年数)を基準に自分の相当する部に入り、その檀林に前からいる者とともに修学したことと思われます。
祐天上人が学問を終え、伝法を受けた年はいつだったのでしょうか。元和条目には、「浄土を修学して15年に至らない者に両脈を伝授してはならない。璽書の許可は20年に至らない者には相伝してはならない」とあります。11歳(数え12歳)で出家した祐天上人は、これによれば26歳すなわち善導寺時代に両脈(宗脈、戒脈)を受け、璽書(奥義相伝の許可書)も、規則どおりならば弘経寺で授与される立場にあったと思われます。両脈を授かると誉号を、璽書を受けると阿号を与えられるのですが、弘経寺時代に祐天上人が書写した書物(良定作『浄土随自意法門要尺』)の末尾に「顕誉(花押)飯沼弘経寺ニテ」とあることから、弘経寺で両脈はすでに受けていたことが知られます。したがって、『御伝記』にあるような、檀通上人に勘当を受けていたという話(明暦元年「伝説」参照)は作り話と言えるでしょう。

参考文献
『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』、『浄土宗大辞典』

寺院

家綱の増上寺参詣

4代将軍家綱はわずか11歳で将軍の位を継ぎ、また成長後も病弱であったため、政治の主導権は大老である酒井忠清にありました。そのせいか、事あるごとに増上寺を訪れていた3代将軍家光や、熱心な仏教信奉者であった桂昌院を母に持つ5代将軍綱吉と比較すると、家綱の増上寺参詣回数はやや少なかったようです。しかし、毎月台徳院殿(2代将軍秀忠)の忌日に行われる月忌法要の日は、代参を立てて必ず参詣させ、祥月命日には自ら参詣していたこともありました。
社会秩序の安定期とも言える家綱の治世のうちでも、この時期は特に度量衡(長さ・容積・重さを測る、ものさしなどの規格)の統一も成って、幕府政権安定期のピークとも言え、寛文10年は2度、正月と7月の24日に、家綱は自ら増上寺に参詣しています。正月24日は台徳院殿の祥月命日にあたり、7月24日は月忌の法要に参詣したものです。ちなみに、法要の大導師には増上寺26世の歴天上人があたりました。7月には崇源院殿(秀忠正室、お江与の方)の御霊屋にも訪れ、また、ちょうど増上寺で病床に伏していた知恩院門跡の尊光法親王を見舞ったりしています。

参考文献
『浄土宗大年表』、『国史大辞典』、『大本山増上寺史』

出版

『本朝通鑑』

江戸幕府編集の漢文編年体(年月の順を追って記事を配列する)の史書で、前編・正編・続編の3部から成ります。神代史を記述した3巻―前編、林羅山(寛永16年「人物」参照)編集の40巻―正編、醍醐天皇の代から慶長16年(1611)までの230巻―続編の全273巻です。
羅山が正保元年(1644)から編集にあたり、慶安3年(1650)に神武天皇から宇多天皇までの40巻を完成して『本朝編年録』として幕府に提出しましたが、これが明暦の大火で焼失してしまいました。子の鵞峰が、焼失した『本朝編年録』を復元し、寛文10年に続編が完成しました。羅山は大火で蔵書を焼失したために、落胆して4日後に亡くなり、子の鵞峰が跡を継ぐことになったのです。書名を『本朝通鑑』と改めたのは、司馬光が編修した『資治通鑑』が中国の通史の代表なので、これに倣って名付けたのです。本書は、林家の史学の代表とされる著書です。

参考文献
『日本の歴史』19―元禄時代、『新編日本史辞典』

芸能

取り締まりの強化

役者の前髪はすでに禁止されましたが、香具を売るなどの名目で邸などを前髪姿で回り、「不作法な」商売をする輩が横行していたようで、それらも寛文10年禁止されました。また、新吉原以外での遊女屋は禁止され、隠し遊女が見つかると、新吉原へ連れていかれました。歌舞伎界周辺の取り締まりは、ますます厳しくなっていくのです。

参考文献
『江戸歌舞伎法令集成』
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