当時の学僧は九部修学といって1つの部に3年間学び、計27年間で学問を終える制度になっていました。ですから当時の随身僧は、師僧に随従して新しい檀林に行くと、おそらく法臘(出家してからの年数)を基準に自分の相当する部に入り、その檀林に前からいる者とともに修学したことと思われます。
祐天上人が学問を終え、伝法を受けた年はいつだったのでしょうか。元和条目には、「浄土を修学して15年に至らない者に両脈を伝授してはならない。璽書の許可は20年に至らない者には相伝してはならない」とあります。11歳(数え12歳)で出家した祐天上人は、これによれば26歳すなわち善導寺時代に両脈(宗脈、戒脈)を受け、璽書(奥義相伝の許可書)も、規則どおりならば弘経寺で授与される立場にあったと思われます。両脈を授かると誉号を、璽書を受けると阿号を与えられるのですが、弘経寺時代に祐天上人が書写した書物(良定作『浄土随自意法門要尺』)の末尾に「顕誉(花押)飯沼弘経寺ニテ」とあることから、弘経寺で両脈はすでに受けていたことが知られます。