明顕山 祐天寺

年表

寛文09年(1669年)

祐天上人

檀通上人、飯沼弘経寺へ

檀通上人は、台命(将軍家の命令)により、茨城県飯沼(水海道市)の檀林弘経寺の住職となり、晋山(住職として寺に入ること)しました。弘経寺は、応永21年(1414)の開創で、十八檀林の中でも、紫衣を許された〔寛永11年(1634)許可〕紫衣檀林として、高い格式を持った寺院です。祐天上人も、師の檀通上人に随従していきました。

参考文献
『浄土宗全書』20、『浄土宗大年表』

寺院

万福寺、造立成る

4月14日、黄檗宗万福寺の鉄牛が登城して、伽藍造立を家綱に感謝申し上げました。万福寺は、寛文元年(1661)隠元が開創(寛文元年「寺院」参照)。同年、伽藍の建立を開始しました。前大老酒井忠勝からは法堂、大坂海老屋勝性印などからは西域木(チーク材)、家綱からは白金2万両と西域木などの寄進がありました。
隠元は同4年(1664)に退隠し、木庵性トウが2世となりました。鉄牛はこの木庵の弟子です。万福寺の住持は、隠元派の渡来僧を前住持の推薦により幕府が選任することになっていました。14世から日本僧が住持となる例が起こり、21世大成照漢を最後に渡来僧の住持は絶えました。伽藍配置は中国風で、塔頭(付属の小院)は一時は33を数えました。


増上寺新方丈に歴天

7月23日、増上寺方丈知哲が麻布一本松の隠居所に引退しました。かねてから病身で、7月2日には家綱より見舞いの使者も訪れていたのです。翌月8月10日、重責をおろした知哲は遷化しました。68歳でした。新しく増上寺26世方丈になったのは、新田大光院の歴天でした。


阿弥陀仏の奇瑞

武蔵国(東京都)葛西庄西小松川村の浄念(木村庄左衛門)が護持する阿弥陀仏の全身から白い汗が流れるという奇瑞があり、多くの参詣者がありました。この阿弥陀仏像を浄念は、十八檀林の1つ、小金東漸寺に寄進しました。

参考文献
『浄土宗年表』、『国史大辞典』、『小金東漸寺志』(『浄土宗全書』20)

芸能

花道のはじめ

玉川彦十郎が堺町に芝居小屋を作りました。このとき、橋掛(能楽の橋掛と同じで、舞台と楽屋裏との間に橋を渡し、細い道の上でも演技を行うもの)を作ったのが、今の花道のはじめです。こののち、貞享から元禄(1684~1703)の頃、出端(役者が観客の前に出てきた瞬間)の芸を生かすために、橋掛を客席方向へ設置するようになります。享保年間(1716~1735)中頃、これが常設されるようになりました。花道では、揚幕と舞台との距離7対3の位置(七三と呼ぶ)でよく、出端を印象付ける演技などが行われます。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎事典』
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