明顕山 祐天寺

年表

明暦02年(1656年)

祐天上人

祖父重明、没す

11月14日、いわきの祐天上人の祖父、新妻重明が亡くなりました。法名は経誉感説浄応信士です。

参考文献
『寺録撮要』1

伝説

黒滝長恩との問答

館林よりさほど遠くない黒滝村に、諸国修行の長恩という禅僧が居着くようになりました。この長恩は説教がうまく、人々を集めては話をするのですが、他宗を攻撃し、浄土宗の悪口を言うのです。まだ館林に来て日が浅い檀通上人のことも、でたらめばかり言い立てるので、なかには信じる人も出てくる始末です。善導寺の人々はこれを聞いて腹を立てましたが、檀通上人は取り合いませんでした。弱冠19歳の祐天上人は怪僧の鼻をへし折らんと出かけていき、みごと長恩を屈服させました。長恩の袈裟法衣を取り上げて帰途に着いた祐天でしたが、長恩の弟子たちが追いかけてきました。しかし、祐天が一心に念仏を称えると、不思議なことに急に大風が吹いて雷鳴がとどろき、弟子たちは恐れて逃げ帰っていきました。以上は、『祐天大僧正御伝記』などにある説話です。
ところが、この話の長恩のモデルになったと思われる僧がいます。臨済宗黄檗宗の潮音道海です。潮音は寛永5年(1628)肥前国(佐賀県)小城郡に生まれました。祐天上人より9歳年長です。13歳で出家し、木庵性トウの弟子となり、明暦2年には江戸に出ました。万治元年(1658)春、北関東を布教して歩き、邑楽郡新福寺村の宝林寺再興のためにしばらく滞在しました。潮音の評判は館林藩に知られ、城に招かれて講義し、藩の重臣にも信者が続出しました。延宝元年(1673)黒滝山で修行していた高源和尚も潮音の弟子となりました。高源は寺院建設を進めていたのですが、開山を潮音とすることにしました。潮音が黒滝山で開いた説法には10日間で3,000人の人が集まったと言います。
このように信仰を集めた潮音ですが、出版した本が天照大神を冒涜するとして天和元年(1681)伊勢神宮に訴えられ、蟄居70日の刑にあいました。
こうして見てくると、潮音は、その名前の字音から始まって、禅宗であること、年齢、黒滝で人気を集めた説法者であったことなど、「長恩」と共通する点が多いことが指摘できます。さらに、なぜ悪役になっているかという点も、公に罰せられていることを考えると納得できるようです。

参考文献
『祐天大僧正御伝記』(写本、内閣文庫蔵)、『群馬県史』通史編6―近世3(群馬県史編纂委員会編、群馬県発行、1992年)

寺院

増上寺貴屋ら、猿楽陪観

6月28日、将軍家綱は、増上寺方丈貴屋上人らを江戸城に招き、猿楽を陪観させました。家光、綱吉と比較すると、増上寺への先祖の忌日の参詣も、代参が多い感のある家綱ですが、このような増上寺住職との交流の場はやはり持ったようです。


鴻巣勝願寺、紫衣の勅許

8月2日、檀林鴻巣勝願寺に紫衣の勅許がおりました。紫衣の許された寺を「紫衣地」と呼び、もともと京都では知恩院、知恩寺、金戒光明寺、清浄華院の四箇本山、檀林では芝増上寺、小石川伝通院、鎌倉光明寺、瓜連常福寺、飯沼弘経寺、新田大光院、深川霊巌寺の7か寺、そのほか、由緒寺院や幕府と関係のある寺院でした。増上寺は三枚紫衣、伝通院、光明寺には二枚紫衣が許されていました。また、知恩寺、金戒光明寺、清浄華院、大樹寺(松平氏8代の菩提寺、岡崎市)、宝台院(秀忠生母菩提寺、静岡市)、天徳寺(江戸四か寺の1寺、秀忠復興、港区)、誓願寺(同じく四か寺の1寺)の7か寺は、引込紫衣地と言われ、そこから栄進して本山の住職になることはできませんでした。


貴屋、上洛参内、尊光法親王の檀林留学を乞う

8月29日、増上寺貴屋は京の御所に参内しました。新しく門跡となり、知恩院に入室した尊光法親王〔栄宮、後水尾院皇子、正保2年(1645)の生まれで、数え年12歳。7歳のとき、家光の猶子となり、門跡相続が決まっていました〕に檀林へ留学していただきたい旨を奏上しました。


縁山声明

貴屋は、京より、声明に堪能な僧たち数人を伴って江戸へ帰りました。これらの人々が、縁山(増上寺)声明の起こりとなりました。

参考文献
『浄土宗大辞典』

出版

『甲陽軍鑑』

近世初期の軍書。成立年未詳。20巻59品から成り、小幡景憲編と推定されています。武田信玄を中心に、合戦、戦術、社会状況、戦国大名がどのように部下を統率したかなどが記されており、戦乱の殺伐とした中にも勢いのあった大名たちの熱気が感じられます。現存する最古の版本が明暦2年のもので、写本で伝えられたものも数多くあり、江戸時代だけでも20種に近い版本が出ており、謎の書とも言われています。武士の心組みを知るうえで欠くことのできない文献です。

参考文献
『日本史大辞典』、『国史大辞典』、『日本古典文学大辞典』
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