11月14日、いわきの祐天上人の祖父、新妻重明が亡くなりました。法名は経誉感説浄応信士です。
館林よりさほど遠くない黒滝村に、諸国修行の長恩という禅僧が居着くようになりました。この長恩は説教がうまく、人々を集めては話をするのですが、他宗を攻撃し、浄土宗の悪口を言うのです。まだ館林に来て日が浅い檀通上人のことも、でたらめばかり言い立てるので、なかには信じる人も出てくる始末です。善導寺の人々はこれを聞いて腹を立てましたが、檀通上人は取り合いませんでした。弱冠19歳の祐天上人は怪僧の鼻をへし折らんと出かけていき、みごと長恩を屈服させました。長恩の袈裟法衣を取り上げて帰途に着いた祐天でしたが、長恩の弟子たちが追いかけてきました。しかし、祐天が一心に念仏を称えると、不思議なことに急に大風が吹いて雷鳴がとどろき、弟子たちは恐れて逃げ帰っていきました。以上は、『祐天大僧正御伝記』などにある説話です。
ところが、この話の長恩のモデルになったと思われる僧がいます。臨済宗黄檗宗の潮音道海です。潮音は寛永5年(1628)肥前国(佐賀県)小城郡に生まれました。祐天上人より9歳年長です。13歳で出家し、木庵性トウの弟子となり、明暦2年には江戸に出ました。万治元年(1658)春、北関東を布教して歩き、邑楽郡新福寺村の宝林寺再興のためにしばらく滞在しました。潮音の評判は館林藩に知られ、城に招かれて講義し、藩の重臣にも信者が続出しました。延宝元年(1673)黒滝山で修行していた高源和尚も潮音の弟子となりました。高源は寺院建設を進めていたのですが、開山を潮音とすることにしました。潮音が黒滝山で開いた説法には10日間で3,000人の人が集まったと言います。
このように信仰を集めた潮音ですが、出版した本が天照大神を冒涜するとして天和元年(1681)伊勢神宮に訴えられ、蟄居70日の刑にあいました。
こうして見てくると、潮音は、その名前の字音から始まって、禅宗であること、年齢、黒滝で人気を集めた説法者であったことなど、「長恩」と共通する点が多いことが指摘できます。さらに、なぜ悪役になっているかという点も、公に罰せられていることを考えると納得できるようです。