明顕山 祐天寺

年表

慶安02年(1649年)

説明

浄土宗発展と祐天上人

祐天上人は前年の慶安元年(1648)11歳(数え12歳)で出家し、増上寺で僧としての修行を始めたわけですが、当時の増上寺の建て前としては15歳未満の者は入寺できないことになっていました。〔寛永9年(1632)「所化入寺掟之事」〕また、「三経不読僧」(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の三つのお経をまだ読み習っていない僧)も入寺を許可しなかったのです。三経(浄土三部経)を読んだということは、基本的な浄土宗の僧としての学問が終了しているということであり、増上寺はさらにそれ以上の教育を施す高等教育機関であったことがわかります。しかし実際には縁故の者を頼ったりして15歳未満の者も入寺していたようです。そして年少の彼らが浄土三部経を修学済みだったかどうかも疑問の余地が残ります。
寛文11年(1671)になると、増上寺以外の檀林の寺へ入寺した者については、正月に参府した折にその入寺帳を増上寺に届け出ることが義務づけられます。また、貞享2年(1685)になると、江戸の5つの檀林に入寺できる定員が定められます。増上寺70人、伝通院50人、霊巌寺、幡随院、霊山寺へは各々9人といった具合です。さらにのちに、籤によって決めたようで、増上寺に入ることはなかなか難しかったのです。

参考文献
『増上寺史料集』1、2(1983年)、「貞享二年の定書及下知状」(『浄土宗全書』20)、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

伝説

祐天が愚かになったわけ

祐天上人がお経を覚えられないほど愚かであったという伝説(慶安元年「伝説」参照)に対して、江戸時代の読み物作者は、このような解釈を与えています。祐天上人ははじめ、仏菩薩の相を備えたまれに見る赤ん坊でした。しかし、2、3歳のとき、羽黒山の山伏龍海坊という、妖術により世を妨げ人を損なう悪僧が、この子の貴相を見て自分より法力のあることを知り、悪心を起こして毒を飲ませたのです。その結果祐天は、不動尊の利益で救われるまでの間、愚鈍になってしまったと理由付けしています。

参考文献
『祐天上人一代記』(全6巻、享和4年刊、祐天寺蔵)

寺院

家光、増上寺参詣

2月2日、将軍家光は台徳院殿霊廟・崇源院殿霊牌所に参詣しました。台徳院とは2代将軍秀忠、崇源院とは秀忠の正室のことで、つまりご両親の霊廟(先祖の霊をおまつりするところ)に、お参りしたということです。いつもであれば、こののち、実際に遺体を埋葬したお墓にもお参りをしていたのですが、慶安2年からお墓へお参りするのは命日とお盆のときだけとすることに決めています。


地震により寛永寺大仏頭部、落下

6月20日に江戸を襲った大地震で、たくさんの家屋が倒壊、上野の寛永寺にあった大仏の頭部まで落ちたと、江戸市中で話題になりました。現在この大仏さまは、胴体を太平洋戦争のときに軍に供出してしまい、顔のみとなって寛永寺境内におまつりされています。


地震により寛永寺大仏頭部、落下

6月20日に江戸を襲った大地震で、たくさんの家屋が倒壊、上野の寛永寺にあった大仏の頭部まで落ちたと、江戸市中で話題になりました。現在この大仏さまは、胴体を太平洋戦争のときに軍に供出してしまい、顔のみとなって寛永寺境内におまつりされています。


大風で鎌倉大仏、倒壊

現在「鎌倉の大仏さま」の名で親しまれている、高徳院の阿弥陀如来坐像は、鎌倉で唯一の国宝仏です。この大仏は慶安2年だけでなく、何度か大風で倒れました。近くから見上げて拝む人々が多いために、下からもよくお顔が見えるようにと少しうつむきかげんに、頭部は身体に比べると大きく造られています。

参考文献
『徳川実紀』3、『江戸学辞典』、『武江年表』、『仏像めぐりの旅①鎌倉』(毎日新聞社、1992年)、『上野寛永寺』(須賀一、1990年)

出版

『挙白集』

歌文集。木下長嘯子(「人物」参照)著。慶安2年刊行。巻1の春の部には、243首の桜の歌が並べられています。このことから、長嘯子には花への執着があることがわかり、また「松風は吹きしづまりて高き枝にまた鳴きかはす春のうぐひす」「はとのなく外の面の松の夕がすみ春のさびしき色は見えけり」の歌からは、のびのびとした自然の見方に生き生きとした清らかさが感じられます。72歳からの晩年を桜に埋もれて暮らしたことからわかるように桜を愛し、自由な精神を持っていたから、清新な歌を詠むことができたのです。

参考文献
「木下長嘯子」(中西進、『短歌』第36巻第7号、角川書店、1989年6月)、『増補新版日本文学史』4―近世1

芸能

貴人用の幕、取りやめ

中村座で、身分のある人(貴人)がお忍びで見物するときに使用していた幕、屏風が禁止されました。これ以後、貴人の見物は減ったそうです。すると、芝居小屋もさるもの、今度は東西の桟敷5つずつに、荒い格子をつけたところ、またまた貴人の見物は増えたそうです。江戸時代、芝居は遊里と並ぶ悪場所とされていましたので、武士は出入りを禁じられていました。この頃はまだそういうことはありませんが、やはり貴人にとっては、人に目撃されたくない場所だったようです。

参考文献
『歌舞伎年表』
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