明顕山 祐天寺

年表

慶安元年(1648年)

祐天上人

出家

祐天上人は数え年12歳(満11歳)のとき、出家を思い立ちました。その理由としては、祖母玅光が見た夢が挙げられます。

夢で玅光は、孫がもし武士や医者になるならば家名を高め、出家するならば異国までも名の知られる名僧になるであろうとお告げを受けます。俗塵を好まない上人は、出家することを決め、伯父新妻八左衛門(道法)に連れられて、当時、増上寺塔頭(寺域の小院)、寿光院(のち、池徳院と改名)にいた叔父休波のところへ行きました。休波は上人の才能を非凡なものと知り、良い師匠に就かせたいと思い、増上寺明誉檀通上人に紹介しました。祐天上人は檀通上人に付き従って出家し、教えを受けることとなりました。『縁山志』10には、このとき檀通上人は、袋谷にいたとあります。袋谷の学寮は増上寺の大門を入り、左のほうへ1町(約109メートル)ほど行った、行き止まりのところにあったので、袋谷と言いました。(『縁山志』11)。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『浄土宗全書』19、『寺録撮要』

説明

檀通上人

合蓮社明誉(はじめ遵蓮社逞誉)。符念、また、空阿と称しました。檀林の館林善導寺、飯沼弘経寺にそれぞれ11世、19世の住職として赴任したあと、鎌倉光明寺43世に命じられ、着任します。しかし、同じ年の延宝2年(1674)8月2日、遷化されました。鎌倉光明寺、及び館林善導寺には、檀通上人の倚像が遺されています。光明寺蔵のお像の胎内には、書付(書付の写しである『鎌倉光明寺檀通上人御腹内書附』が祐天寺に伝わる)が入れられていました。それには「聡敏」な「好学之人」、「清素」で「節操」に富んだと評されており、檀通上人の人柄の一端を知ることができます。

参考文献
『『縁山志』・『館林善導寺志』(『浄土宗全書』19)、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

伝説

不動尊霊験

檀通上人の弟子となった祐天上人は、僧侶の勉強を始めました。毎日、お経の読み方を習います。ところがどうしたことか、大変に物覚えが悪いのでした。檀通上人がお経を1節読んで、同じように読みなさいと言うと、ほかの弟子たちはすらすらと読むのに、祐天は1字も読み方を覚えていないのでした。檀通上人は根気良く教え続けました。しかし、祐天は1字覚えると前の字の読み方を忘れるというありさま。故郷に戻そうかとも思いましたが、当分の間様子を見ていました。幼心にも祐天は悲しい気持ちになりました。お経が覚えられないのだから、きっと僧侶にはなれない。でも今さら何の面目があって帰れるだろう……。考えあぐねた祐天は、増上寺の開山酉誉上人をまつる開山堂にこもることにしました。7日目の満願の日、まどろんだ夢に酉誉上人が現れ、成田山の不動堂にこもって祈誓するようお告げがありました。喜び勇んだ祐天は、すぐに成田山へ行き、不動堂に21日間のおこもりを始めました。断食して祈り続けた21日目の明け方、夢に大小の剣を持った不動明王が現れました。

「善哉。善哉。やよ祐天。汝の信仰、誠に感じ、思いの種を絶ちくれん。いづれの剣を欲するや」
どちらの剣を飲んでも死ぬのは明らかに思えました。
「長剣をいただきとうございます」
聞くが早いか、明王は祐天ののどの奥へ長剣をぐっと突き差しました。祐天はあっと気絶しました。どのくらい時間が経ったのでしょう。われに返った祐天は身を起こしました。頭の中がすっきりとしています。かたわらに長い剣が抜き身のまま落ちており、刀身は血で染まっています。見ると、自分の衣も血で染まっているのです。このときから祐天は人が変わったようになりました。一度聞いたお経は決して忘れず、学問もどんどん進み、聡明さは増上寺一山の中でほかに並ぶ者もないほどになったのです。

このような、成田不動の利益を語る伝説が、江戸時代には広く流布していました。成田山ではある時期まで、開帳のときに祐天の血のついたという「鈍血の衣」と剣を展示していたと言います。ところがこの伝説は誤りで、成田山にこもり祈誓したのは、同じ浄土宗の道誉貞把〔増上寺9世。生実大巌寺開山。永正12年(1515)~天正2年(1574)〕だったようです。貞把に比べ、祐天の知名度が高いため、知名度の高くなった祐天滅後、その話題性から作られた話のようです。この話が元となり歌舞伎などにも取り入れられ、日本文化の一面に影響を与えたのです。さらにもう1つ館林の善導寺にこもったという話も伝えられています。明暦元年(1655)に命を受けて檀通上人は、檀林館林善導寺に住するべく赴きますが、同寺の不動尊に、随従していった弟子の祐天がこもったという伝説があるのです。(明暦元年「伝説」参照)。

参考文献
参考文献 『祐天上人御伝記』、『善導寺と祐天上人』(石川英亮、善導寺、1961年)、『祐天上人実伝 付録「天慶の乱」』(田村周助、田村長流出版部、1934年)、『祐天僧正御一代記』(柳亭種彦、明治時代、松林堂)
TOP