明顕山 祐天寺

年表

正保04年(1647年)

伝説

累、殺害

8月11日、下総国(茨城県)羽生村で残忍な殺人事件が起こりました。農夫与右衛門は、妻累とともに刈り豆を収穫した帰り道、重い豆を妻に背負わせておいて、川に突き落とし、のどを締めて殺してしまったのです。与右衛門は入り婿でしたが、舅姑はすでにありませんでした。醜く、また嫉妬深い累には飽き果てていたところから、この女を殺して財産を手に入れ、違う妻を迎えようという、いわば色と欲との2股かけた犯行だったのです。殺害後、与右衛門は何食わぬ顔で、累の死体を菩提所法蔵寺に運び入れ、頓死と断って埋葬しました。事件はこれで終わってしまうかに見えました。しかし、これが数十年後に祐天上人の名を高からしめる大事件となるのです(寛文12年「伝説」参照)。

参考文献
『死霊解脱物語聞書』(残寿、祐天寺蔵)

寺院

増上寺19世智童、入寂

正月5日、将軍家光は使者をもって増上寺智童の病を見舞わせました。しかし、智童は9日、66歳で遷化します。

梅若塚、妙亀庵賑わう

3月15日は、梅若丸の命日だとして、隅田川木母寺梅若塚では、大勢の僧侶と参詣の群衆によって大念仏が行われました。この時期は花曇りで、おおかた雨が降るのが常で、それを梅若の涙の雨と言い習わしていました。大変な人出で、参詣の客で賑いを見せていました。また、浅茅が原妙亀庵は、梅若の母の塚の上に祠堂を建てて妙亀明神と称し、この日、妙亀尼の像を開帳したのでした。家光は、この年ひそかに久世大和守を遣わして、花見を兼ねて、大勢の人々が参詣に出た様子を知り、こののどかさは政がよく行われている証拠だと、悦に入ったのでした。
梅若丸の話に触れておきましょう。昔、京都の公卿吉田少将の1子梅若丸は、人買いにさらわれ、東国まで連れてこられました。けれども子供のこと、隅田川のほとりで疲れてもう歩けなくなり、ついにこの場所で息を引き取ったのでした。人々は、遺体を葬り、小さな柳を植えて塚としました。1年後の命日に里人が念仏をたむけていると、隅田の土手を風に髪をなびかせて1人の狂女がさまよい歩いてきました。その女こそ、吉田の少将の内室、梅若丸の母だったのです。母親は、子供のいなくなったことを嘆き、館を迷い出、この隅田川まで行方を尋ねてきたのでした。里人から、この塚こそ1年前に亡くなったわが子の墓だと聞かされて、悲嘆に暮れながら念仏をたむけると、青柳の陰に梅若丸の幻が立ち現れます。曙の霞とともに幻は去り、その後母親は、出家してこの地に庵を営んだとも、鏡が池に身を沈めたとも言われます。梅若伝説は、謡曲『隅田川』、浄瑠璃『雙生隅田川』など、さまざまな分野の文芸作品の題材となっています。

参考文献
『徳川実紀』3,『東都歳時記』(東洋文庫、斎藤月岑、平凡社、1970年)、『江戸名所図会』

出版

『鑑草』

教訓書。中江藤樹(正保元年「人物」参照)著。正保4年刊行。8項の教訓を6巻にまとめています。各項の最初に一般的教訓を示し、次に例話を挙げています。本書は、孝行の者は栄え、孝行でない者は衰えるという「孝逆の報」に始まり、不嫉(ねたまないこと)は守節の善行なので、必ず素晴らしい報いがあり、嫉毒(ねたむことによって生じる毒害)には、損があると説く「不嫉妬毒報」、子に道を教えてその明徳徳性を明らかにすれば、生前死後の幸福をいただき、子を愛せば、明徳という宝が与えられると説く「教子報」などがあります。
「教子報」での例話としては、孟子の母(孟母)の教育の様子を挙げています。「孟子年たけて師にしたがひ道を學び給ひぬる時、里へ歸り給ひぬ。折しも孟母はたにあがりて絹ををり給ひけるが、はたのうへより孟子に問給ひけるは、用なきに里に歸りけるは、學問のかたもつきけるにやと。孟子のこたへまめやかならざりければ(忠実でなかったので)、小刀にてはたをきりて、汝が學問にゆだんあるは、此たてたるはたをきるにことならずと、甚だしくいましめ給ひぬ」とあり、学問の中絶を戒めています。その結果、孟子は大賢となりました。『鑑草』を読むと、藤樹の人生観がわかります。藤樹は、心を穏やかにして子孫が栄えることを第1とし、長命を第2としています。この世というのは嫌い憎むものではなくて、快楽を生じる地であると言っています。

参考文献
『鑑草』(岩波文庫、岩波書店、1939年)
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