明顕山 祐天寺

年表

寛永16年(1639年)

伝説

祐天上人の祖先

祐天上人の本姓は関東地方の名族、千葉氏から早く分かれたという説があり、生家では氏神も千葉氏と同じ妙見尊をまつり、家紋も同じ九曜の紋を使っています。千葉氏本流は、頼朝に仕えて武功を挙げた千葉常胤など、優秀な武将のほかに、増上寺開山、酉誉上人も千葉氏の出身と言われるなど、各界に活躍する人物を送り出しています。千葉氏から分かれた血統は、その後、中世以来の名家葛西氏につながるとも言われます。葛西氏の中興、葛西三郎清重はやはり頼朝の家臣として活躍して関東、奥州に勢力を持った人物です。清重の息子の朝重が新妻の姓を名乗り、そのはるか子孫として、祐天上人の父、小左衛門重政が生まれたのでした。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『浄土宗全書』、『新妻家所蔵系図』、『日本家紋総鑑』(千鹿野茂、角川書店、1993年)、『明顕山寺録撮要』

寺院

増上寺19世智童、入寂

正月5日、将軍家光は使者をもって増上寺智童の病を見舞わせました。しかし、智童は9日、66歳で遷化します。

慈眼、増上寺に入住

2月15日、飯沼弘経寺慈眼が、増上寺に住します。慈眼は紫衣を許された僧侶で、寛永5年(1628)より17年(1640)まで、しばしば将軍に召されて飯沼から江戸へ通いますが、その折、宿駅ごとに人夫とご朱印をかけた伝馬を授かるという、丁重な扱いを受けました。

増上寺霊屋に代参

2月24日、酒井忠勝が、増上寺台徳院(家光の父、秀忠)霊屋に代参しました。家光自身も5月24日、7月15日に台徳院、崇源院(秀忠室、家光の母お江与の方)の霊屋に詣でており、7月15日には方丈慈眼に銀300枚と時服10枚を布施しています。秀忠は1月24日、お江与の方は9月15日が命日であるところから、月参りと思われます。増上寺への参詣は、この年が特別多いというわけではなく毎年数回行われており、家光の祖先への強い思慕の念を物語るものと言えましょう。

寛永寺の薬師堂など焼失

3月20日、上野寛永寺の薬師堂、五重塔などが焼失しました。寛永寺は江戸城鎮護のため、寛永2年(1625)に本坊が造られ、諸堂は諸大名の出資で建立されました(常行堂は尾州侯、法華堂は紀州侯の出資でした)。

知足院、大山などに造営費寄進

4月7日、幕府は筑波山知足院、相模大山などに堂塔の造営費を寄進しました。知足院へは1、300両、大山へは1万両という大金です。大山は子授けに利益があるとされているので、当時、まだ世継ぎのなかった家光からの祈願料だったようです。

知恩院本堂、建立

5月、家光の命になる知恩院本堂の再建が成ります。現在の本堂はこのときのもので、軒に「左甚五郎の忘れ傘」と呼ばれる傘の柄のようなものが見えます。これは、「風箏」という、風で音を出す一種の建築装飾物で、『俳風柳多留』に「知恩院ふる日に建た堂と見へ」という句があります。

参考文献
『浄土宗大年表』、『徳川実紀』3、『徳川諸家系譜』、『相模大山縁起及文書』(石野瑛、名著出版、1973年)

出版

仁勢物語

仮名草子。『仁勢物語』は無署名ですが、一貫したテーマがあることから、烏丸光広作と伝えられ、寛永16年頃の成立とされています。この物語は、『伊勢物語』の全125段と奥書までをもじったものです。有名な1段目「むかし、男、初冠して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里にいとなまめいたる女はらからすみけり」を、「をかし、男、頬被りして、奈良の京春日の里へ、酒飲みに行きけり。その里にいと生臭き魚、腹赤という有りけり」と書き換え、貧乏、酒を主題とし、原文の優雅さは1つもなくなっています。
『仁勢物語』の主人公たちが旅をする土地にはどれも理由があり、旅する者の特徴や島原の乱を取り入れたり、各所に新時代の風物を点描して読者の笑いを誘うものとなっています。優雅な話を近世の卑近な食べ物に置き換えたことが、この物語をおもしろくし、物語全体を楽しめる作品としています。

参考文献
『年表資料近世文学史』(松崎仁・白石悌三・谷脇理史編、笠間書院、1977年)、『仁勢物語』(市古夏生、『解釈と鑑賞』第55巻3号、至文堂、1990年3月)
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