明顕山 祐天寺

年表

寛永15年(1638年)

伝説

祐天上人の容貌

祐天上人は、「幼時より気稟常に異なっていた」と伝記に見えています。気品をたたえた双眼は、眼球が少し上下にずれ、「大人」(器量を具えた超人的人物)の相であったとされます。父母ともわが子の侵しがたい品格に驚いていたと言われています。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』

寺院

万松山東海寺創立

4月27日、幕府は僧沢庵のために品川に東海寺を建立しました。万松山と号し、現在は臨済宗大徳寺派に属します。塔頭(寺域内の小寺院)は17を数えました。寛永20年(1643)将軍家光が参詣し、小堀遠州に池中の石を「万年石」と命名させました。その他、家光命名の「千歳杉」なども有名です。正保2年(1645)、沢庵没後はこの寺の境内に埋葬し、ただ松をもって目印としたと言います。同3年には家光がその墓に詣でており、深い帰依がしのばれます。東海寺に墓のあるその他の人物としては、儒者の服部南郭、国学者の賀茂間淵らが挙げられます。

参考文献
『江戸名所図会』

家光、増上寺へ参詣

正月15日、台徳院(2代将軍秀忠)7回忌万部経会が増上寺で奉修され、24日の結願の日とも2回、家光が参詣しました。20日、勅使、院使(天皇、上皇の使い)が都より下向し、22日には知恩院門跡良純法親王が到着しました。23日に台徳院霊屋前に納経し、一段落しますが、大規模な法要だったようです。

参考文献
『浄土宗大年表』

日光山、全焼

正月27日、日光山に火災があり、御旅館(参詣時に将軍が泊まるところ)をはじめ、一山ほとんどが全焼しました。このことは、2月1日になって秋元但馬守の注進で知らされ、所領で火事を起こした咎で、昵近の臣、堀田正盛は家光の機嫌を損じ、出仕を止められますが、天海が詫びを乞い、許されます。家光の怒りには、増上寺の法会最中であったことや、島原の乱に軍を派遣して大事な戦の最中であったことも影響していたのでしょう。3日、家光は病後のため、高家吉良上野介義弥を代参させ、かつ松平正綱を派遣して、秋元但馬守とともに火災後の諸事を指示させました。

参考文献
『徳川実紀』3

芸能

太夫のはじめ

3月、村山左近太夫が、京都から村山座へ下りました。染めた手拭いの長いものを被って、女の真似をよく写して所作舞を演じ、「太夫」と呼ばれました。これが今の女形のはじめで、以後女形を一座の中で「太夫役」と呼んだと言います。のちに吉原などで廓の遊女のうち最高位の者を「太夫」と呼んだことも、これが起源だという説があります。また、「女郎に能をさせた際、太夫の役を第一の女郎が勤めたところから起こった」などとも言います。今「下る」という言葉が出てきましたが、これは当時の江戸と上方の関係をはっきりと表す言葉です。文化は上方のほうが高く、江戸は開けたばかりの野蛮さの残る都市だったのです。役者も上方の者が上とされていました。上方から下ってきたものは、何でも優れているとされたのです。つまらないものを「下らない」と言うのも、同じ語源です。

参考文献
『歌舞伎年表』
TOP