明顕山 祐天寺

年表

寛永14年(1637年)

祐天上人

御生誕

4月8日、祐天上人は磐城で誕生されました。奇しくも釈尊と同じ日の誕生でした。一説によると、新妻小左衛門重政の長男でした。生家の場所は、現在の福島県いわき市四倉町仁井田です。この地は海岸線に比較的近く、漁村と農村の中間的場所で、大変信心深い地域でした。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、「新妻家所蔵系図」(成立年不詳)

説明

磐城

石城、岩城とも書きます。『磐城志』に、「前に岩前郡、後に石背郡があるので、石城とは石の脇という意味であろう」とあり、山に囲まれた奥地らしい地名であるとわかります。同書はまた、「湯湧」ところという解釈も載せています。別説に、「石城」は「石木」の意味であり、古人がここに石炭が出るのを見て名付けたのではないか、とも言われます。江戸時代にはもう少し広い地域を「磐城」と呼ぶようになり、『葛山氏磐城風土記』には、「寛文9年(1669)、岩木4郡(磐前、菊田、磐城、楢葉)の村数は243、田は1万700町、戸は1万5、000、人口は9万3、000だった」という記載があります。現在では福島県の東部にあたり、四倉はその北東部です。

参考文献
『大日本地名辞書』、『岩城四郡図絵』(復刻岩城資料、白銀文庫第2巻、斎藤威雄発行、白銀書房、1972年―文化元年刊行のものの復刻)

伝説

出生の不思議

祐天上人の両親には、長く子供がありませんでした。なんとか子供を授かりたいと願った母は、二十三夜ごとに月を拝すること、多年に及んだと言われます。ある夜、月を見上げ、祈っていると、月がぐんぐん大きくなって、降下したかと思うと、庭の樹木にとまり(この樹木のことを里人は影響の樹と長く呼んだそうです)清い光で邸内一面を照らしました。上人の母が妊娠に気付いたのは、このことがあってまもなくのことです。
この奇瑞には、時代が降るに従っていろいろな要素が加えられ、『行状記』には「1人の高僧が空中に立って告げたことには、『我は地蔵菩薩なり。汝に1子を授けよう』と言って如意宝珠を賜わった」とあります。祐天上人が、地蔵菩薩の化身だという思想の表れでしょう。また、江戸時代後期に流布した『祐天上人一代記』によると、成田山の不動明王が霊剣を自分の口中へ投げ入れる夢を母が見たことになっています。こちらは、不動尊と祐天上人が結びつけられて(慶安元年「伝説」参照)から書かれた作品と見ることができます。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『祐天上人一代記』(享和4年刊本、祐天寺蔵)、『祐天大僧正行状記』(祐天寺蔵)、「顕誉祐天の略歴」(巖谷勝正、『大正大学大学院研究論集』20号、大正大学出版部、1996年)

寺院

家光と智童

8月15日、3代将軍家光は増上寺19世法主智童に斎(食事)を供(供養)しました。前年の寛永13年(1636)
には、江戸城と増上寺を合わせて8回も、智童に「斎を供した」という記事があります。徳川家が菩提寺を大事に
していた証でありましょう。

参考文献
『徳川実紀』3

知恩院声明衆

12月、知恩院声明衆22人が、翌年の正月台徳院(2代将軍秀忠)7回忌の増上寺法会に加わるため、京都から下向してきました。声明衆とは、梵唄(仏教音楽)を、研究・実践する人々を言います。雅楽の楽器である笙などを用い、儀式を荘厳に盛り上げる役目を果たします。声明は、天台宗と真言宗が有名ですが、天台宗の大原流声明の流れを汲んで生まれたのが、知恩院を軸とする浄土宗の声明です。もともと宗祖法然上人も、真如堂の引声念仏を相承していると言われ、音声面に通達されていたことが知られています。江戸の三縁山増上寺が、徳川家の菩提寺として、幕府の庇護を受けるようになってからは、縁山流という独自の節回しに発展しました。慶長19年(1614)、8月29日、伝通院水野氏13回忌法要を奉修のとき、家康の要望により声明を行い、以後の徳川家法会には必ず行われるようになりました。のち、増上寺23世貴屋上人は、明暦2年(1656)に上洛の際、知恩院2代門跡尊光法親王の三縁山留学を請い、さらに大原声明衆向之坊恵隆僧都とその門下らを伴い帰山しました。山内30坊の各住職らは競って声明を錬磨し、今日のような声明を確立しました。

参考文献
『浄土宗大辞典』

出版

天海版大蔵経

寛永14年、『天海版大蔵経』が開版(木版刷り出版)を始めました。大蔵経は一切経とも呼ばれ、仏陀の教説を伝える経蔵、教団や僧侶の規則をまとめた律蔵、仏陀の経説を論述した論蔵の三蔵から成っています。一切経の開版は、鎌倉時代にも行われたものの、寛永寺の開山天海が、徳川家光と企画開版した『天海版(寛永寺版)』が最初のものと言われています。この大蔵経は、木活字を用いて版を組むという画期的な手法により慶安元年(1648)に完成しました。延宝6年(1678)に鉄眼が開版したのが『黄檗版大蔵経』で、現在祐天寺にある大蔵経はこの黄檗版です。これは祐天寺開山祐天上人の随従者である億道和尚から贈られたものです。

参考文献
『佛教大辞典』(古田紹欽ほか監、小学館、1988年)、『明顕山寺録撮要』
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