
「あめつちに わが悲しみと 月光と あまねき秋の 夜となりけり」―石川啄木―

「暑さも寒さも彼岸まで」と言われるお彼岸が終わり、いよいよ秋が深まってまいりました。時折夏をぶり返すような汗ばむ日もある一方で、衣替えを始めたご家庭もあるのではないでしょうか。日の暮れがかなり早くなり、月に照らされた秋の夜長を楽しむようにどこからともなく鈴虫やコオロギたちの合唱が聞こえてきます。
おちば、夕やけ、あかとんぼ。目黒のさんまに秋の夜のつき。「ちいさい秋みつけた」ではありませんが、季節が進むにつれて秋らしいものに触れると、どこかさみしさを感じてしまうのは私だけでしょうか。特に美しい月が見える秋の夜はより一層、孤独を感じてしまいます。明治の歌人、石川啄木はそんな孤独感を次のように詠んでいます。
あめつちに わが悲しみと 月光と あまねき秋の 夜となりけり
(天と地のあいだに、私の悲しみと月の光とが満ちて、隅々まで行きわたる秋の夜になったことだなあ)
煌々と秋の夜を照らす月を眺めていると、自身のかなしみも浮き彫りになっていく。月の光がこの世界を満たすと同時に、私の内側から溢れ出る悲哀も世界を満たしていくような気がする。啄木が詠むように、秋の夜というものはどうも人をものがなしい心情にしてしまうものです。啄木は、秋の夜の月に自身の悲哀を見出しました。では、浄土宗を開かれた法然上人はどのように感じられたのでしょうか。
月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ
(月の光の届かないところはないが、それを眺めようとする人の心にこそ澄みわたるのである。それと同様に、苦しみの世界の人々を救おうとする阿弥陀仏の救いの光も、全ての者に平等に届いているが、それに気づき受け入れようとする者の心にこそ、救いの光として澄みわたるのである)
啄木は月の光に照らされたこの世界にかなしみを抱き、一方で法然上人は月を指差しこうおっしゃいます。「救いの光を素直に受け取りお念仏する者を、阿弥陀様は救い取って捨てることが無いのです」。啄木の思いの通り、この世は悩み苦しみが絶えない世界です。一方で法然上人は、我々がこの苦しみの世界を厭い離れるためのお念仏の教えを残してくださいました。啄木のようにかなしみを抱く者にも、月を見上げた時、その心に救いの光が届くのです。
この秋の夜長、ぜひ皆様も大切な方を思い、そしてご自身の極楽往生を願い、月を眺めながらお念仏をしてみてはいかがでしょうか。
合掌
法務部 黒澤崇弘